『かさこ塾界隈』という言葉を見た話
先日、Facebookのタイムラインに『かさこ塾界隈』って表現が流れてきた。
その投稿の主旨はかさこさんを褒めるようでかさこ塾生をおおむねディスる内容。
私は、
『かさこさん』
のことをけなしたり悪口を言ってる人を見ても、あなたはそうかもね、くらいにしか思わないのだけど、
『かさこ塾生』
という括りでいっしょくたにされて批判されることに非常に怒りと違和感を覚える。
裏表あるよねー
イベントで使えないよねー
群れてるよねー
ってさ。塾生に限らず、そんなの誰にでもあるんじゃないの?
かさこ塾生だけが裏表がありイベントで使えず群れているのか?
むしろ塾生以外のほうがそれは多いはず。日本に塾生は2000人くらいなんだからさ。
それを投稿していた人と私はFacebookの『友達』だったのだけど、速攻で削除した。
かさこ塾生というフィルターでしか私のことも見ないだろうと思ったから。
そして、私もその人のことをかさこ塾生をけなす人というフィルターでしか見れないのである。
その投稿はかさこさんのイベントでの司令塔としてのことを書いたブログをシェアしたものだった。
そこで私は思うのだが、
ダメなやつはどこに属していようとダメ。
使えない人はそうそう使えるように変化したりはしないもの。
そして、その人も塾生なのだから、自分で自分のことをけなしているわけなのよね。気づいているのか知らないが。
私はその人に会ったこともない。どこの人かも知らない。自分のそういう『友達』の増やしかたに疑問が涌いてくる出来事でもあった。
それから、その投稿にコメントで参戦してくる人も一体なんなんだと。
俺の知ってるやつも悪口言ってたぜと。ださい。実にださい。だからその人も速攻で削除した。
友達削除したぜ自慢じゃない。私は自分のこういうところも嫌なのだ。嫌なのに繋がっているところね。
嫌なものを見るのも嫌だ。
だから見ない。今後はそうする。
また、今回ものすごく腹が立ったことで、自分に余裕が発生していることに気づいた。
離婚してから約一年。ようやく周りのことが見えてきたのだ。
この余裕を怒りに使っている場合ではない。
でも、『かさこ塾生だから』というけなしかたをする人は全員嫌い。
私は『かさこ塾生』であるが、私は私以外の何者でもないのだから。