母乳が出なくて自分を責め、毎日孤独だった日々から救ってくれた助産師さん
私は2008年に長女を出産しました。
母乳が出ると信じて疑わなかったのですが、母乳があまり出ませんでした。
私が選んだ産院は母乳指導はあまりなく、電動の搾乳器があり、ミルクを当然のように足して、有無を言わさず哺乳瓶を最初から使いました。私は完全母乳にしたかった。
退院し帰宅してから始まったのは、想像以上にハードな日々でした。
母乳とミルク、混合でやる場合、私がやっていたやり方は
①ミルクを作ってから、搾乳。そのあと、乳首カバーをミルトン液から出す。(乳首が裂傷、乳首の長さが足りないと産院で言われていたため装着していた)
②乳首カバーを装着し母乳を与える。
③搾乳した母乳を哺乳瓶で与える。
④ミルクを適温にして、哺乳瓶で与える。
⑤乳首カバーを洗浄後ミルトンに浸けて、哺乳瓶も洗浄消毒。
で、この搾乳した母乳を哺乳瓶であげて、ミルクを与えようとする間に、たいてい娘は嘔吐してしまう。せっかく搾った母乳を吐かれてしまう虚しさ。
この行程を一通りやると、一時間なんかあっという間でした。しかも、寝かしつけに時間がかかる。
つまり、次の授乳の時間がすぐに来てしまう。
自分はいつ寝るんだろう。
このまま休めないんだろうか。
いつまで続くんだろう。
地獄でした。
眠くて眠くて疲れていて体中が痛くて、乳首もすごく痛かった。悪露も止まっていなかった。
当然のように娘は泣いていた。
でも、私がいちばん泣きたかった。
この授乳の時間は私にとっては本当に辛く、
どうして母乳がもっと出ないんだろう、
満足させてあげられない私は母親失格なんだ、
ミルクを与えるなんて母親失格なんだ、
私は誰にも助けてもらえない、
私は孤独だ、
私は世界中から否定され非難される存在なんだ、
ノイローゼ寸前でした。
こんな風に辛くて辛くてたまらなかった産後1ヶ月を過ぎた頃、市による、助産師の『新生児訪問』がありました。
産後、初めて、家族でも医師でもない他人と話しをした機会でした。
娘は上記の私の努力により順調に育っていました。でも私は順調なわけないと思っていました。
しかし目の前で順調に成長していることが証明され、具体的なアドバイスをもらいました。
泣いたら吸わせること、
赤ちゃんは疲れないこと、
私ががんばっていたこと、
私は全肯定され、安心し、正気に戻った。そして、その日から母乳が出るようになったんです。
軌道に乗るにはもう少しかかりましたが、泣いたら吸わせる、泣いたら吸わせる、を繰り返し、ついに完全母乳になりました。
ほんとにあと一歩遅かったら、あのまま鬱になり、今日こうして笑顔でいられなかったと思います。
あの時来てくれた助産師さんに、私は本当に感謝しています。
その後、市の『母子保健推進員』になることに決めました。スリングの使い方を教えることも並行して始めました。
母子保健推進員では、産後3~4ヶ月頃に再度ママの疲れのピークが来るので、ママの様子を見に行く『おめでとう訪問』という活動をしています。今、3年目です。
今日は4ヶ月育児相談が市役所で開催され、母子保健推進員として計測のお手伝いに行って来ました。
いつもあの日の助産師さんとは顔を合わせていたのですが、今日写真を撮りました。
あの日と変わらず、たくさんのママを助けている助産師さん。私の尊敬する人です。